Dialogues With Water

Kyoto Waterscapes: Water Diaries
京都ウォータースケープス - ウォーターダイヤリーズ: 水と音と言葉

※ この文章は、「ウォーターダイヤリーズ: 水と音と言葉」ワークショップ(講師: エレナ・トゥタッチコワ)の参加者によって書かれたものである。




 「水になることについての考察」

野咲タラ



1.ピ、、ピ、、、

前日、一昨晩冷凍庫に入れて、翌朝取り出した水を入れただけのペットボトルは、蓋を開けてみると中の側面に雪の樹枝状結晶の一片のような、ギザギザの小さな羽の形をした、柔らかい柱が立っていた。美しい形をずっと眺めていようとしたつかの間、視線はすぐに霜を解かす。見ていたものが消えてなくなったあと、ペットボトルからすぐに、澄んだ高い鮮明な音が一つ鳴った。一つなるとそこからさらに氷が溶ける音が盛んに鳴り出す。小さな氷が溶ける聞き馴染みのない音は思いの外に大きな音で、音には深みがあった。しばらく机の上にペットボトルを置いたままにして置いたら、水が増えていくにつれて音はだんだんと変化して小さくなっていくようだった。

2.ゴゴゴォォ、、

夕方5時ごろよりはじまった土砂降りの雨と突然の轟音の雷は、18時20分頃まで続いた。時間を細かく気にしていたのは、そのあと19時からの映画を観に行く予定があったからだ。雨がピタリと上がり、灰色で薄暗くなった空気の中を涼しく移動して、外出先での用事を済ます。再び家に帰ってから、22時頃、SNSで東京の友達らの報告が無作為に投稿されているのを見かける。あちらで雷が鳴り、雨が降り出したという。さっきの雲が関東へ到着したらしい。雲に乗ったら5時間で東京に行ける。

3.カタカタカタ、コト、

翌日、その日集まった4人で水を探すことになっていた。「かくれんぼする子供のように自分の姿を消して、水を観察して水になるにはどうしたらいいかを考える」と補足説明が添えられた。それから他の3人は頻りに土地と水を結びつけようとする議論に取り掛かった。それには訳があって、事前の案内文には「水と土地の結びつきの観点を持つこと」の注意書きがあったからだった。そして残り1人はその注意書き部分をすっかり読み飛ばしていたので、その時すでにおいてけぼりになっていた。だからその場所には、「土地の水を観察すること」という3つの意識と、「水を観察すること」という少しズレた1つの意識があった事になる。
世界規模のチェーンのコーヒー店のテラスで飲むアイスカプチーノは、プラカップの表面に水滴が出来て、それが大きくなり下に移動してテーブルに水たまりができる。その水滴が形成されて移動する経過は視覚でわかるのに、音は人の耳には聞こえない。

4.バッタリ!!

この街には、この国で一番大きな湖から水を引くために作られた水路がある。それはあちらの県からこちらの府へと続いた水の道だ。時代の流れで変化した都市において予測された、経済的な衰退を食い止めるために講じられた策だった。最初にいた場所より、劇場/動物園/学校/寺/の横を通過する水路を眺めるために歩く。
「道は水に沿って出来る」。水という人でないものが人を動かして、人は水を動かす。文明の発達は水に寄る。
劇場の横を南北に流れる水はエメラルドグリーン色をしている。川みたいな形の、ため池のように動きがなく、重たそうな水を貯め込んだ水路には、鳥が集まる。鴨/鵜/鷺。それらを眺めながら、水面の鳥の動きや様子について、鳥のように盛んにしゃべる。橋の下は喫煙所のように鳥たちが集まっている。一方、水面に映る雲が気になる。水路の水と雲はどちらも水だ。だから水路の水と雲が出くわすことは、ドッペルゲンガー現象だ。そう考えると至るところで水と雲は出くわしている。世界中で常に不思議なことが起きている理由は、水と雲の遭遇のせいだ。なのかもしれない。

5.ヒラヒラ、、ユラユラ、、ヒュッ、、ツ

さらに地面を這う水を追いかけて、地面を這う水の道は、北側の白い小道と南側の茂った植物の緑色を伴った路地へと続いた。伸びてきた木々の枝が水路を覆い、流れていく水に光と影の両方を落とす。この付近の水は澄んでいて、激しく流れ、水底と水面の二重の平面が重なる。水に落ちた木漏れ日と影は立体的で、変化が一層美しかった。
中でも特別変化の加減が美しい、と言って立ち止まった場所のちょうど目の前の枝に、クロアゲハが2匹くっついたまま止まっていた。黒い優美な八枚の羽は、少し強い風が吹き、大きく揺れたところで反応しない。人が枝の端をつまんでよく見えるように動かしたら、二匹はくっついたまま数メートル離れた木に飛び移る。そこでまた動かなくなった。二匹の世界は、世界に対してしなやかで硬い。
地面より低い水路を観察するために下を向いて太陽に照らされた道を歩きながら、顔を少し上げるたびに目に入ってくる雲をより一層羨ましく思う。水になるにはどうしたらいいか。最初に出された課題は、方法ではなく結果ばかりが思い付く。雲になった方が、地面に縛られずにどこへでもすぐに行けるし、空の方が涼しそうだし、晴れた広い空の居心地はたいそう気持ちが良さそうだ。雲になり、涼しいところで移動したい、暑い日の移動は、重力から離れてひとっ飛びに限る。

6.フワフワはフワフワじゃない

南禅寺三門へ登る。22メートルの高さは地面にいた時よりも視界の邪魔が減り、近づいたはずの雲が少しだけよく見える。だけど、雲は相変わらず遠くに見え、鈍くてほとんど動かない。雲は地面に縛られていない。炎天下の中を歩く人の体がとても重く感じるのは重力のせいで、だるくて動きがゆっくりになる。だからその反対に、空に浮かぶ雲の方が重力から離れて自由そうで羨ましく思った。けれど、考えれば考えるほど、見た目の印象に矛盾を感じる。本当は物理的事情が込み入っているようだ。
重力からの解放は、雲の移動の速度を上げる原因にはならない。そういえば、水路の水は、地面を移動する動きは早かった。地面の上では水は重力を利用して動く。この土地の川は北から南に流れていくけれど、それは高低差によるもので、疎水の一部はその高低差を利用して、川とは反対の、南から北に逆流する箇所があるのは有名な話。
一方、雲が浮かんでいるのは、雲が重力に解放されているように思えた。けれど、実際はそうではい。雲は意外に重くて何トンもの重さの水になる。その重い塊が空に浮かんでいるのは、様々な条件のバランスによる。重力/温度/上昇気流/空気より軽い水蒸気の重さ/な/ど。空に浮かんでいる雲は、呑気で牧歌的な目にした通りの想像よりも、意外にもずっと複雑な条件で保たれている。
改めて水になる方法。同じ素材の集合体同士だけれど、水路の水と雲は同じ素材の異なる条件で出来上がった集合体だ。なにかになるために観察することは、その成り立ちのための条件を知ることでもある。だけど見たままだけでは掴めない条件を知る方法が必要だ。

7.トントン、カラリ、トン、カラリ

GoogleMapは水にまつわる箇所が水色に色付けされている。細かいところまで色が変わっているので、意外に水色が至る所にあるような印象だった。地図に水色の綺麗な四角があった。そこへ向かうことにする。向かう途中も水路があれば眺めた。その地区は、いかにも立派そうな垣根で囲われた敷地に沿って、水路が至る所にあり、小さな魚が泳いでいたりもする。目的地付近に着くと、そこは学校で、夏季休暇中の門は閉まっていた。門の中も人はおらず、外も人は通らない。どれくらい人が通らないのかというと、フェンスに落し物の免許証が挟まっているくらい。門の外から、地図上の四角い位置を確かめると、遠くにプールがあった。水は溜まっているのか抜かれているのかは、門から遠すぎて見えない。
散策するうちに細かな雨が降ってきた。それは時間にすると瞬間のことだった。天気がよく、空に雲は少しあったけれど、太陽に照らされて、落ちてくる雨は途切れ途切れの金色の絹糸のようだった。ある国の神話の雲は、はた織り機で織られていく。言われてみれば、どの雲も技を備えた機織りの職人が作っていったものに思えてくる。昼間の青い空に、積み上げていく白い入道雲。夕方の藍色の空に浮かべるための、細長くて美しい繊細な何列もの赤く染まった雲。時間や季節によって、形や色が変わり、一つとして同じではない一回きりの雲を織る。
雲はおしゃれだ。朝起きて、その日のその時の雲に合わせて服を選ぶ。生き物が周りの環境を真似て身体の色を変化させる擬態のように、人間の生活習慣に雲になることを取り入れる。水になる方法の一つとして雲になる。


参考文献:リチャード・ハンブリン(2007)『雲の「発明」―気象学を創ったアマチュア科学者』扶桑社



「8月23日(日曜日)」

真田 清貴

琵琶湖疏水沿いを歩く。
疏水の流れに逆らって、カモや鵜が一列に並んでスイスイと水面を移動している。そのすぐそばに、鯉たちも並んで泳いでいる。彼らを横目にしばらく歩いていると、夏の陽射しに照らされて真っ白に反射した砂利道が視界に入る。引き込まれるように、砂利道を歩く。砂利道の横には、サーサーと勢いよく小川が流れている。瀟洒な建物の間を縫うように流れる小川、いや小川ではなく、明らかに人工的に作られた水路だ。当たりの建物の庭を通ってきているのだろうか,四方八方から水が流れ込んでいた。しかし、その水源はこの真っ白い砂利道が続く先にありそうだった。
しばらく歩くと、目の前に急に学校が現れた。学校の脇の道をさらに登っていくと、道の傾斜はきつくなり、流れている小川の流れがとても速くなった。
その小川は、琵琶湖疏水から分岐した流れだった。私が見ていた水は琵琶湖から何日間か何時間かかけて流れてきた水だった。部活途中の高校生を横目に見ながら来た道を戻り、また琵琶湖疏水沿いを鴨川方面に戻る。
夏のとても暑い日で、二条大橋からは親子でバシャバシャと水遊びをしている姿がたくさん見えた。橋を渡り路地に入ると、まるで地面にプスッと刺さったストローのような蛇口が学校の脇に見えた。なんでも地域の人が管理されている「防災用」の地下水とのこと。
しばらく観察していると,近所のマンションに住む人や鴨川にジョギングしに来た人たちが,ペットボトルにジョロジョロと水を汲んで,その場でグビグビ飲んだり,家に持って帰ったりしていた。自分も持ってきたペットボトルに汲んで,ゴクゴクと飲んだ。蛇口のあるところから鴨川とは逆方向へ自転車へ。「銭湯」の看板が目に飛び込んできた。真夏の日差しで汗だくになっていたので汗を流す。ザブンと水風呂に飛び込む。水風呂に入りながら今日のことを思い起こす。
私はよく山に登るが、山に登ると、登った頂上から別の山を見定めて次に登りたい山を決めることがある。そして、また次の機会にその見定めた山に登って、この前いたであろう山の頂上を見返す。すると、時空を超えて「今ここにいる私」が、この前いた場所にいてこちらを見ているような錯覚に陥ることがある。
今日は,水を巡って一日中動き回ったが、あそこで「見た」水がこっちでヒョッコリを顔を出したかと思えば、また別のところでヒョッコリ顔を出したり、まるで水とモグラ叩きをしているかのような気分の一日だった。
水も、人間と同じように、時間と空間を移動していることを改めて実感した。

 

大田高充

その小川はまっすぐ流れていた。建物と建物の合間に射す陽の光と、穏やかな水の流れが手伝って、両岸には植物が茂り花をつけていた。葉にはクロアゲハのつがいも繋がって垂れ下がっている。南国風情だ。さらさらと童謡のようなせせらぎの音が鳴っている。川に映る木漏れ日は、スクリーンに映るようにはっきりと見える。水面は布がはためくように細かくそよぎ、中の様子は見えにくい。目を凝らすと菱形のパターンが繰り返されている。川底には塀の石垣のような石積みがあるようだ。これをなぞって流れる水のぶつかり合いが、せせらぎを鳴らしているのだろう。これを水路と呼ぶひともいるかもしれない。人に造られた通りに沿って水は直進している。幅を変えず、傾斜は道を挟むたびに急になって、山向こうへ消失点を作っている。見なくていいのと問われた気がして、私たちもまっすぐ歩き出した。そんな声にならない対話をした一日だった。





***

風景と向き合うとき、私たちはどんな視点を持ち、どんな言葉を使い、何を主語にしているでしょうか。
今回のワークショップで試みるのは、水との対話です。もし水が言葉を持っていたら、それはどんな言葉だったのでしょう。人間の言葉に置き換えられなくても、水は言語を持っているのではないか。水という自然に向き合い、視点と主語を変えることで、思いがけない場所で言葉が見つかり、物語が現れるかもしれません。
当日は、話し、歩き、耳を澄ませ、文章を書くという、一日かけての長時間のワークショップとなります。 言葉を使い、自然、町、そして自分自身と対話をしましょう。

ワークショップ概要より

©︎Elena Tutatchikova, Dialogues With Water Project